川根本町民インタビュー
【川根本町民インタビューvol.12】宮嶋隆行さん(ときに米農家)
「毎日バタバタで大変だけど、そして何者でもないかもしれないけれど、生きているという感じがあります」
静岡県浜松市出身・2021年に移住
古代米と呼ばれる米の品種がある。在来の稲の特徴をはっきりと残した品種のことだ。そのうちのひとつに赤米がある。米はいまからおよそ2,500年前、つまり長かった縄文時代もさすがにそろそろおしまいという頃に大陸から伝来したわけだけれど、鹿に矢を射ったり、こねた土に縄をこすりつけたりしていた我々のご先祖が初めて目にして、おそるおそる口にしたであろうそれは、じつは赤い色をしていたのだ。白米というのは赤米が突然変異した結果に過ぎない。その後白米が主流になる傍ら、栄養も豊富で干ばつにも冷害にもタフな赤米は江戸時代まで各地で栽培されていた。しかし品種改良が盛んになる明治以降、赤米、ひいては古代米の栽培は徐々に下火になっていった。
宮嶋隆行(ミヤジマ タカユキ)さんは赤米を育てている。古代米の別品種である黒米と、そして白米も育てている。昨年、赤米は販売もした。だからもちろん宮嶋さんは米農家なわけだが、留保なしの米農家として紹介すると、ご本人がきっと頭をかいてはにかむだろうと思い、「ときに米農家」と称させていただいた。というのも、彼は専業の農家ではなく、そして3年前に東京から川根へ移住してくるまではいかなる農家でもなかったのだ。
移住をしたとき、宮嶋さんは43歳だった。二十年近く勤めてきた会社と気に入っている仕事があり、妻と幼い一人の娘からなる家庭があった。相応に安定した生活があった。この状況を移住に対する逆風ととらえる人もいるかもしれない。でももちろん追い風となることだってある。宮嶋さんの場合、編集者や記者として目にした光景と、追いかけ考え続けてきたことが、泥くさくても農的に暮らす男を内側からつくりあげていたのであり、家庭があればこそのノリのようなものが人生の先の地点に心躍る未来を設定したのだ。さて、インタビューは田植え期真っただ中の6月半ば、田んぼの畦地で行われた。ちなみにその後田植えも手伝わせていただいた。黒米の苗をたくさん植えた。
お米を育てはじめて3年が経った
― ちょうど田んぼにお邪魔しているわけですが、まずは宮嶋さんの米作りについて教えてください。
はい、白いお米と赤いお米、それに今年から黒いお米をちょっとやり始めました。
でも僕、お米を、というか農業自体、始めて間もないので、農家というのはおこがましいっていうか。
素人が変なことやってるなぐらいで。いつもバタバタの実験。もうちょっとまともに出来るようになるには5年くらいかかるかなって。
― 今何年目なんですか?
今年で3年目。田んぼは少しずつ広がって、いま6,7アールぐらい(1アール=100㎡)。
まず赤米を育てはじめました。開拓した田んぼもそこまで広くなかったし、白米つくってもそこまで穫れないんじゃないかなと思って。赤米ならちょっと珍しいし、おもしろくない?って。
縄文文化にハマっていた時期もあったもんで。赤米って日本に初めて伝来したお米らしいんですよ。種もみは、農業を学ばせてもらった藤枝の有機農家さんからいただきました。
最初は自分たちが食べる用って感じで始めたんだけど、いろんな方が買って食べてくれるんで。本当ありがたいことに。だもんで去年は、パッケージつくって、ファームの名前までつけちゃったりして。
― お米を育てるというのはやはり大変なんですか?
草取りが大変でした。あと、今は水が張ってあるんですけど、去年は水がすぐ引いちゃって。そうすると雑草がものすごく生えちゃうんですよ。土のつくり方がダメだったんでしょうね。米ぬかが足りなかった。
虫は多少つきました。取れたお米に、黒くなった粒が混じっていたりする。カメムシが吸うとそうなるらしいです。でもそんなに気にするほどじゃないから、無農薬でもいいんじゃないかなとか思ったり。
土に除草剤を含んだ肥料を入れる農家さんも多いんですよ。そういう人は草取りのために田んぼにほとんど入ったりしない。僕は入りまくってますけど。
― 無農薬でやることは当初から決めていたんですか?
もともと環境問題のことには興味があって、昔、いろいろ取材していたんです。農薬や化学肥料を使ったら、それは川に流れ出て、海の方まで汚染していく。みんな気にしてないかもしれないけど、結局農業は環境に繋がっているんですよ。だもんで、他人が農薬使うのはともかくとして、自分はそういうのはやらない。自分がそれを実践する側になるとは思わなかったですけど。
農民の歌と踊り、その生々しさと美しさ
― そもそもなんですけど、なぜ移住したあとに田んぼをやることにしたんですか?
じつは自分の祖父が掛川で農家だったんですよ。米とお茶をやっていて、山も持っていたもんでシイタケも採っていた。お盆とか正月とか、よく泊まりに行ったんだけど、そこの雰囲気がなんか気持ちよくて。仕事でいろいろ取材している中で、その辺の記憶がよみがえってきたんです。
― 農的な原風景というか。
自分が取材に行ったことでよく覚えているのが、モザンビークの農民たちの集会。彼らがわざわざ日本に来て、日本のODA(政府開発援助)に抗議するために、国会の議員会館で集会を開いたことがあったんですよね。
要は自分たちにとっては迷惑だってことなのよ、日本の開発が。自分たちは自分たちの生活で農業をやっていきたいんであって、あなた方の開発とは関係したくないんだと。日本の言う豊かさとかなんとか、そういうのは要らないと。
その集会の最後にね、彼ら、いきなり歌を歌ったのね。種まきの歌を。自分たちで手拍子を取ってさ。
僕もその場にいたんだけど、なんかそれを見たらね、すごい美しいなと思った。鳥肌が立った。すごい迫力。農民は歌と一緒に生きているんだよね。川根にも茶摘みの歌があって、おばあちゃんたちが歌っているのを聞いたことがある。
そのときかな、初めて自分でもなにか農的なことをやりたいと思ったのは。
― なるほど。国会で目にした、モザンビーク農民の歌と踊りが。
川根に移住して、この田んぼを持っている松田園芸さんと知り合って。田んぼ空いているよ、って言ってくれて。うん、なにかやるなら今なんじゃないかなと思った。妻に相談したら、絶対におもしろい!と言ってくれた。
あ、それで思い出しました。田んぼをやるうえで、夫婦そろってテンション上がった理由があって。昔、二人でドジョウすくい踊りをやっていたんですよ。
― どういうことですか?(笑)
結婚式で披露しようということで6ヶ月くらい習ってたんです。 教室が東京の湯島にあったんですよ。
踊りの中で、ドジョウもさることながら、ヒルが出てくるんです。踊りながら、ヒルに喰いつかれた!って驚いたり、ヒルを取ってほいって投げる動作があるんです。正直、その頃は、ヒルってなんだよ(笑)、とか思ったんですけど。 人生でヒルを見たことがなかったから。
― そうか、東京でヒルはなかなか見かけないですもんね。
「ヒルは食いついたらなかなか離れないから、力を入れてグッと取るんだよ」とか指導されながら、いやでもヒルなんか知らないしなあとか思っていたわけですけど。
田んぼをやるやらないってなったとき、そのドジョウすくい踊りが思い起こされたわけです。それで田んぼをやる方にブーストがかかったのはある。リアルドジョウすくいができる!と。まぁ、この田んぼでヒルは見ても、ドジョウは見たことないんだけどね。
家族と一緒にした移住
― なんだかいい感じで、ご夫婦間のノリみたいなものが掛けあって、展開してますよね。
僕的には川根に来て妻をプロデュースしているような感覚もあるんです。
そもそも移住することになったきっかけっていうのは妻なんですよ。
自分はあまりそういうタイプではないんですけど、妻がもともとバックパッカーをやっていたんです。でも仕事は、銀行員とか、部品会社の事務とか堅いことをやっていて。東京で出会ったときから違和感はあったんですけど、見てても仕事があまり楽しくなさそうで。
どう考えても妻のキャラがもったいないと思って訊いたら、実はゲストハウスをやりたかったらしいのね。でもまだ踏ん切りがついていなかったみたいで。宿を始めるのにいい土地を探そうってことであちこち調べて周る中で、川根がビビッと来たんです。
― 奥さんの話が出たついでに、子育てのことについても伺いたいです。移住してきたときにはもうお子さんがいましたよね?
川根に来たときは長女が3歳とか4歳でした。こっちに来る前、埼玉に住んでいたときは、オンとオフがはっきりしていたかな。保育園ではにぎやかにやっていても、園から出たらもうオフ。シャットアウトして、友だちに話しかけられても何も返さないの。ちょっと閉じている雰囲気があった。
でもこっちに来たら、なにか解放されたのかな、学校から帰ってきたらすぐに自転車に乗って、あちこち走り回っている。
― ファームのインスタを拝見してると、田んぼに入って遊ぶお子さんの投稿なんかがよく上がっていて、楽しそうだなと思って見ています。
いろいろインスピレーションが湧くみたい。いろんな生き物を見つけたりとか。
気分的な開放感はあるんだろうなと思います。やっぱり都会の方だと、不審者がいたりもするけど、それと比べたら田舎はとにかく大人の人が怖くない、というか、怪しくない。安心感がある感じがするんだよね。
もし偏見というものがないとしたら
― 家庭があるなか、移住して田んぼを始めるというのは、やはり思い切った行為ではありますよね。
本当にね。40過ぎて、全く違う世界で、あらためて生活をつくり直して。
しかもここに来る前はほとんどノープラン状態だったからね。暮らしはじめてから、出会いによって、プランが徐々につくり上げられてきている。
うちのファーム、「オニだって...farm」と言うんです。涙流した鬼がアイコン。鬼といっても優しい鬼だっている、だから偏見を持たないで、という意味です。
僕も40過ぎて田んぼを始めたわけで。その歳で農家を始めるなんて、という空気もあると思うけど、そういう偏見に囚われずにチャレンジしてもいいじゃない、という自分に向けたメッセージでもあります。農家といったって、それ一本で食べていくような農家は目指していないですけど。
― 偏見なくせば、鬼だって、40歳だって、と。もし今、宮嶋さんは何をしている人ですか?と訊かれたら、なんと答えるんですか?
なんなんでしょうね。何者でなくてもいいと思ってはいるんですけど。とりあえず食べていく道を探っているんですけどね。探って、なんか生きていて、、、そんなんで生きていていいんでしょうか、みたいなところはありますけどね(笑)。
とにかくいまの生活は、毎日バタバタで大変だけど、そして何者でもないかもしれないけれど、生きているという感じがあります。あるときは編集者で、あるときは農家をやって、他にも仕事があって、子育てもある。一日の中にそれらが全部入ってくる。いろいろやる形を目指してる。
そういう意味では、百姓は百のことができる人であると言うけど、それに似たようなものかなって思っています。
― いわばその現代版みたいな?
できること少ししかないけど、一つの仕事だけで積み上げていくと、それが崩れたらちょっと危ういじゃないですか。
一日に何個ものことがぎゅっと詰めこまれているというのは、なんだか大変なんだけど、それぞれ脳みそを使うところが違うから、一つのことだけずっとやっているよりも負荷が少ない。田んぼもね、もちろん体力使うんですけど、リフレッシュもできるんですよ。自然を受けて、自然の恵みをもらってる気がする。
色々なことがガラリと変わったけど、満足感はいま高いです。あとは田んぼが、もうちょっとできるようになれば。いまそこへまっしぐらに向かっているつもり。
― そうしたらゲストハウス計画のほうも動き出すんですか?
いま考えると、目指しているのはゲストハウスというより農家民宿に近いかもしれません。移住してから、農的なことと料理はもちろん、川根のおじいちゃんおばあちゃん達の手仕事がすごいなあと日々感じているので、川根のすごさ、魅力とお米の面白さを感じてもらえるような宿、そして来てくれた人に笑顔になってもらえるような、そういう宿にしたい。田んぼも、ドジョウすくい踊りも、そのための大切な柱。
でも正直、宿の準備はまだほとんど進んでいません。リフォームとかDIYをして建物の体裁を整えるのが大変になりそうだけど、どう進んでいくのか、今後の展開が楽しみです。
― 応援しています。お話ありがとうございました。
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(インタビュー・文・写真:佐伯康太)
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