川根本町民インタビュー
【川根本町民インタビューvol.3】矢野悠佳さん(農家 hajimari yuu )
「いまは孤独でもないし、満たされています。こうやって我が子がいるんでね」
愛知県名古屋市出身・2016年に移住
矢野悠佳さん(以下、ユカさん)は川根本町の農家である。のべ七反(約7,000㎡)の畑で、四季それぞれ10種類ほどの野菜を育てている。春はダイコン・カブ・水菜・小松菜・スナップエンドウ、夏はニンジン・ナス・ズッキーニ・モロヘイヤ・空心菜・オクラ・キュウリ、秋はイモ類、冬は霜の降りる2、3月をのぞいて根菜類を育てている。年間で50種類ほどの野菜が採れる。農薬と肥料はいっさい使わない。採れた野菜はおもに町内の飲食店に直接卸している。活動は今年で5年目になる。農家としての彼女には屋号がある。その名をhajimari yuuという。その屋号のもと、いまも昔もユカさんはひとりで野菜を育て続けている。
七反の畑は町内にいくつかに分かれて位置している。私がインタビューの際にうかがったのは地名の辺りにあるひとつだった。そこは山に囲まれた平地で、川根には珍しく田んぼが広がっており、その一角にユカさんの畑はあった。広さは二反で、ナスやオクラやバジルなどの畝が二列ずつ延びていた。私が着いたとき、彼女は白いキャップと長袖長ズボン、膝丈のブーツという農的正装で、畝のあいだをパトロールしていた。時刻はそろそろ夕方で、畑の上空を赤とんぼが飛び交いはじめていた。ユカさんと私は畑の土手沿いの路傍に腰掛け、その景色を眺めながら話をした。
いまや農的な要素の濃いユカさんだけれども、かつては農業に縁がなかったという。彼女が農家になるまでにはもちろんいろいろな出来事があり、これからそれらを読んで知っていただければと思うわけだけれど、いくつか個人的に感じたことをあらかじめ書かせていただくのならば、まずユカさんにおいて農家というのがたんに職業的肩書きではなく、もっと広義の人間としての在り方として馴染んでいるような印象を受けたということ。そして、ひとりの人間にそれほどの態度をとらせるほどの何が農業のなかにあるのだろうと考えたとき、それは生死ある野菜なのかもしれないということである。そんなわけで私としては、話をうかがう前と後では、目の前に広がっている畑がなんだか違うものに見えてきたりもした。つぼみから花びらが開きはじめるときの揺らぎにも似たユカさんの語りには、そんなふしぎな力があった。
大学を休学し、福島の農園で出会ったもの
— どのような経緯で農家を始めることになったんですか?
じつは育ったのは農業とはまったく関係ない環境でした。生まれは愛知県の名古屋市で、実家のすぐ近くが繁華街です。居酒屋やらパチンコ屋ら、すごいガチャガチャしていて、夜も明るいみたいな。
大学は保健体育の教員免許をとるような学部にいました。でも、なんか自分のなかでこれじゃないことに気づいて、じゃあ何がやりたいんだろうってなったら分かんなくなっちゃって。それで休学したんです。休学しているあいだ何やろうと思ったとき、ちょうど3.11の震災のちょっと後だったので、ボランティアをしに福島の相馬市に行ったんです。そのお手伝い先が農家でした。農的なものに触れたのはそこが初めてでした。
もともとわたしの家族は、父親が単身赴任で家にずっといなくて、五個上の兄も部活で帰りが遅かったりして、母と二人でご飯を食べることが多かったんです。でも、その農園ではみんなでご飯を食べるんです。三十代の農家のご夫婦と、その子どもが一人、あと他のボランティアの子も何人かいて。ご夫婦のお母さんもたまに来ました。みんなで大皿でおかず採り合ったりとか、おかわりついだりとかね。それがすごく新鮮で、農家っていいなって思った。みんなでご飯食べられるんだって。自分たちがつくったものを食べるというのも良かったんです。
わたしは農業の仕事をやりたいと思いました。大学は卒業したけど就職はせず、ウーフ(農園に無給で労働力を提供する代わりに食事・宿泊場所や知識・経験を提供してもらうボランティア制度)で日本あちこちを周っていろんな農家さんのもとで農業をやっていました。行った先の一か所で1年契約の研修を受けました。トラクターの乗り方、草刈り機の使い方、種の巻き方、苗の植え方、とか。
ウーフをやっていたときはずっと楽しかったです。楽しく周れちゃったという感じ。それっていまだから言えるけど、雇われているだけだから言われたことをやれば良くて、楽なんだと思う。きついところには立ち入らずに済んだから。
シカに野菜を喰われた日のこと
— 川根にはどうして?
それもウーフの旅人感覚でした。お茶のバイトをやってみたくて。2016年のことです。最初は1か月くらいのつもりでした。でも、一番茶の時期が終わっても「二番茶もあるからやっていく?」とか、二番茶が終わっても「三番茶があるからいたら?」とかって言ってもらって。冬場はシイタケの仕事も紹介されちゃって。それでなんだかんだ一年間ずるずるいて。でもその一年が気に入っていたから、しばらくいようかなと思って。で2年目も同じサイクルで、お茶とシイタケをやって。3年目は余裕が出てきて、あれ、わたしは何をやりたかったんだっけ、と思って。それで、わたしは野菜を育てたいなと。そうしたらご縁があって、一反の畑を奥泉で借りることができて。
そのころはいまほどたくさんやるつもりはなく、自分で食べるものを自分でつくりたいという程度だった。家庭菜園でいいかなくらいの気持ちで始めたんだよね。でも1年たったある日、畑に電柵をつけてなかったから、シカに片っ端から野菜を食べられてしまって。
もう全滅。春はかろうじて採れたんだけど、夏は全滅。なんもない。ほぼ一晩で、きれいに無くなっていました。違う畑に来てしまったかと一瞬思ったくらいで。シカの足跡と、上から行ったのであろうカプリという齧り跡が見えて。シカはきれいに食べていくんですよ。わたし気づいたら泣いてましたもん。ツーって。苗を植えるにしても、苗になるまで時間がかかるじゃないですか。それをせっかく植えて、収穫もうすぐだというときに全部食べられて。それがすごく悔しかったんだよね。
そのときに、やるんだったらちゃんと生業として農業をやりたいなと思って。いまの中途半端な感じだと農業ではないなと思ったんだよね。ならば厳しいかもしれないけど、ちゃんとやりたいなって。獣害で何もない畑を見て、悔しくて、悲しくて、これはやってやるぞっていうスイッチがそこで入った。
自分ごとだから無農薬で育てる
— そこから畑が七反まで広がっていくんですよね。
一反じゃ生業にならないから面積を増やさなきゃって思って。茶工場で働いていたときに繋がった農家さんたちに声をかけて、もう使っていない畑とかを譲ってもらって、とんとんとね。繋がりが大事なんだなってすごい思った。
— 最初の茶工場でバイトしていた2年間が活きてくるんですね。
川根の良さでもあると思う。移住者に対してあんまり壁をつくらない気がしていて、だからやりやすかったかも。
— けっきょくいま定住していますし。
どこかには定住しないといけないなと思っていたから。あとやっぱ、居心地いいんだろうね。いい意味での適当さがあって。移住者ともフランクに接してくれるし。
でも、いざ農業のことになると、いろいろあったよね。
— いろいろ?
ん-、川根ってお茶がメインだから野菜を作っている人があまりいないんです。お茶って農薬をかけるのが当たり前だから、無農薬ということに理解があまりなくて。
野菜を無農薬で育てていると、虫が付きますよね。虫が来るってことは隣りの茶畑にも虫が飛ぶ可能性があるから、それをみんな心配していて。最初はけっこう言われました。「農薬使ってくれ」「無農薬なんてありえない」って。え、そこまで言うの、とは思ったけど。でも、はいはいという感じで真に受けずやり続けていたら、だんだん理解は出てきたかな。
— ユカさんが無農薬で育てるのはどうしてですか?
母が健康志向で、ずっと無農薬の野菜を食べていたから。もともとアトピーがひどくて。すごかったんですよ、全身赤向けで。それで母が無農薬の野菜を選んでくれて、それがあたりまえになっていたかな。だから自分で野菜を育てるときも自然と無農薬になった。それにそもそも自分が食べるものを自分でつくりたいというのが最初の気持ちだったから。
生きている農園、生きているわたし
— 農業はずっと一人ですか?
ずっと一人ですね。「ひとり大変でしょ?」ってよく言われます。みんなでやったらどうって。それもいいんだけど、なんか誰かの手が加わっちゃうと、悪い意味じゃないんだけど、自分のやり方でできなくなっちゃう気がしていて。ならば大変だけど自分の手で全部やりたいって感じ。
— 理想があるってことですかね。
うん、きっと。わたしも上手く言えないけど。
— それってどんなかたちの理想なんでしょう?
んー。農業を始めるとき、農業どうこうの前に思っていたことがあって。わたし学生のころ人間関係があんまり良くなかったんです。友だち全然いなくって、ダメだったんですよ。ダメで、なんで自分が生きているんだろうなってなっちゃって。生きている理由みたいなものが欲しくて、でもそんなの答えはなくって。でいろいろ葛藤していて、こう農業に出会ったりとかして、いま自分も農業をやっていて。
生きているってすごく単純で、それこそ朝起きて、仕事を一生懸命やって、夜寝る、でその間にご飯を食べる。当たり前なんだけどそれが生きるで。わたしはこの農園を生きている農園にしたい。わたし自身が生きていることを実感できる農園にしたい。
— 野菜をつくるのがゴールっていうことではなくて、それをつくっている人に何が返ってくるかということも大切にしているっていう。
そうそう、野菜はあくまできっかけにしたくて。結局いつか死ぬんだから、生きているあいだに「あぁ、今日も生きてたな」って感覚を大事にしたいなぁって。それがわたしにとっての農業なのかなって思う。
— それは一日一日の農業の仕方にもきっと現れているんでしょうね。
毎日野菜を見ているから、雨が降らなかったこの前の七月は、この子たち死ぬんかなって心配になったり、でも雨が降って生き返ってくれるとほっとしたり。間近で生と死を見る感覚があるかな。
— あぁ、命なんですね、これ全部。
命なんです。だから、この子って呼ぶんです、いつも。自分の子どものように扱っていて。
— シカに野菜をぜんぶ食べられたのは、ある意味、自分の子どもたちを異民族にすべてさらわれたみたいなことなんですかね。
そう、そのくらいの感覚です。すっごく落ち込んだもん。その子たちを無駄にしないためにもやってやんぞと思ったんです。
— なんだかふしぎな気がしますね。名古屋の繁華街で育って、農業とは縁遠かったユカさんが、いまこうして川根で七反の畑を営んで、野菜たちをそこまでの想いで育てているという。
たまにわたしもそう感じます。ふしぎだけど、でも満たされている感覚があります。
— 農業を始める前はなにかが満たされていなかったんですか?
うん、そうかも。学生のときに生きている感覚が分からなくて、でも何がやりたいかって言われると分かんないし、やってみてもいまいちだし。んー、みんなそうなんだろうけど、満たされていなかったね。でも福島で農業を手伝ったときに、私がやりたかった感覚ってこれなんだって。カチャって開いた感じ。どの鍵がここに入るんだろうなって探してたのをやっと見つけて開けた感じ、かな。だからいまは孤独でもないし、満たされています。こうやって我が子がいるんでね。
農家としてのこれから
— これからどのような活動をしていきたいと考えていますか?
まずはいまやっていることを続けること。
今後はより川根の人たちにもっと野菜を食べてもらいたいので、川根の人たちに届くような販売方法を探っていく。他の農家さんって、島田のまんさいかん(ファーマーズマーケット)とかに出しちゃうんですけど、それもおかしいなと思っていて。ここで食べたい人もいるはずだと思うから、基本は川根に卸しています。飲食店とか、マルシェ、あとは定期便で個人のお宅に届けたり。
基本は町内でまわしていきたいと思っています。結局ここで育ったものを外に出さなくても、ここで使って行けばいいよねっていう感覚が最初からあって。外に出す感覚が、そもそも最初からあんまりないですね。いまはわたしもマルシェで島田とか藤枝まで行っているんですけど、それをなしにできるくらい川根で野菜をまわしていきたいなって。毎週末販売できるようなマルシェをやるのもいいかもしれない。
あとは農業を体験できる場をつくりたいかな。生きていることを感じられる場所にしていきたい。だからさっき農業はひとりでやりたいって言ったんだけど、生きている感覚が分からない人がここに来て、なんとなくでいいから答えを見つけてもらえる場所にしたいなとは思っていて。
今年の5月に職場体験で中学生が来てくれたんです。その子たちの多くは休みの日もお部屋にこもってゲームしているみたいで。わたしとしては、そうじゃなくて外に出て、植物と触れあうこともすごい大事だなって思っているから、子どもたちに体験してもらえるような何かをやりたいなとも思っています。
— 農業に限らず、なにかが生まれてくる現場をじかに見ることはすっごい大事だなと僕としても思います。お話ありがとうございました。
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(インタビュー・文・写真:佐伯康太)
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